私の念仏をとなえる生活も、五年になろうとしています。
念仏の功徳なのでしょうか、五、六年前の精神的に苦しかった毎日から考えると、本当に穏やかな日々を過ごしています。
五、六年前というと、私にはまだ家庭があり、事業主としての日々を送っていました。そのころと比べると、離婚と破産を経た今、一人身になり、契約社員として働いていて、ある意味気楽ではあります。穏やかな日々なのは当たり前かもしれません。
もちろん、日々の暮らしには不安や辛さが全くないことはありません。それでも、以前に比べると、なんと静かな日々を過ごしているのか、と思います。
ですが、きっとまた、困ったことや苦しい状況は生まれてくることでしょう。それでも、今の念仏の暮らしが続く限り、以前のように心が引き裂かれ、何かに向かって怒り叫びたくなるような気持ちにはならないのではないか、と感じています。
一方で、今の恵まれた生活(経済的にではなく、あくまでも精神的にです)に対しての感謝の気持ちが薄れてきているようで不安でもあります。今の私は、この状態を当たり前に感じているように思うのです。
ですから、今に感謝する気持ちを思い起こさせるためにも、今ここで改めて、念仏に出会うまでの過程を振り返って、これからの生き方も再確認してみたいのです。
私が、念仏をとなえるようになるまでの歩みです。
* * *
私は、昭和の高度経済成長期に生まれました。家族は両親と姉と私の四人、あの時代の典型的な核家族ではないでしょうか。
そんな私の宗教、仏教とのかかわりは、全くなかったといっていいでしょう。
私の両親は結婚と同時に新居を構えていて、家には仏壇はありませんでした。両親は、宗教には無関心なようで、むしろ知り合いの人が新興宗教に入信する姿をみて、宗教を警戒しているようでした。
そんな感じなので、両親から宗教的な影響を受けることは全くなく、宗教とは無縁な生活でした。
私自身は高校生の頃から哲学書を手に取ったりしました。
ですが、今にして思うと、ちょっと背伸びをして、そのような本を手に取ってみただけだった気がします。その頃、そのような哲学書を読んで何を感じたか、今となっては、まるで覚えていません。
背伸びをして難解な本も手に取ったりしましたが、私自身はバリバリの理系人間で、数学や物理が好きで得意科目でした。
そんな十代でした。
二十代の頃、禅に興味をもち、それに関連する本を読みました。
これは、仏教そのものに興味を持ったわけではありません。
その頃私は音楽に熱中して、少しずつ音楽関係の仕事も始めていました。
そんな私にとって、もっと楽器演奏がうまくならないか、もっといい曲が作れないか、そしてもっと仕事を増やせないか、そのためには禅などを学べば、精神的にプラスになることがあるかもしれない。そういう考えがあったのです。
しかし、私は若い頃から体が硬く、胡座をかくのも苦手でした。そんな私ですから、実際に座禅を体験することもなく、もともと仏教を知りたい思いで禅に近づいたわけでもないので、それほど深く掘り下げることもありませんでした。
こんな感じで、若い頃の私は、宗教とはほとんど縁がなく過ごしてきたのです。
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その後、年を重ねて40歳を過ぎたとき、ある本に出会いました。
その本は『人はなぜ宗教を必要とするのか』(阿満利麿=著 ちくま新書)です。今現在、私が勝手に私の善知識とあおいでいる阿満利麿先生との出会いでした。
その時私は、特に宗教に関する本を探していたわけではありませんでした。
文庫や新書のコーナーで、面白そうな本はないかな、と見ていたら、たまたま目に止まったのが、この本だったのです。
タイトルをみた時に、「そういえば確かに、なぜ宗教があるのかな」と思ったのです。その当時の私は、相変わらず宗教には関わりがなく、何かを求めて宗教に近づくこともありませんでした。単純にその本のタイトルに興味を持ったのです。
購入して読んだ印象は、タイトルを見て想像していた内容とは少し違っていました。私は、宗教が起こった歴史的な過程や、これまで宗教が果たしてきた役割などの内容を想像していたのです。
ですが、決して「期待はずれ」などではありませんでした。そこには、私がそれまで考えたこともなかったことが書かれており、「なるほど」「そうなのかもしれない」と感じさせてくれる内容が書かれていたのです。
例えば、私はそれまで何の疑問もなく、「死ねば終わり」と思っていました。死後の世界などあるわけないし、興味もありませんでした。
しかし、この本には、こう書かれていました。
人はどのような考え方であれ、それによって人生の意義や死後の安心が「納得」できるのであれば、その考えにしたがうものなのです。「死ねば無になる」というのも、一つの「納得」の仕方なのです。「死ねば一切が無になる」ということが科学的だから、という方もいらっしゃるでしょう。しかし、「死ねばすべて無になる」ということは、果たして科学的に証明できることがらでしょうか。
『人はなぜ宗教を必要とするのか』(阿満利麿=著 ちくま新書)
私はこの言葉に深く納得できたのです。もちろんそれを読んだから、急に「死後の世界」があることを信じるようになったわけではありません。しかし、私が思っている「死んだら終わり」ということも、その時の私にとって納得できることに過ぎないのだ、と気が付かされたのです。
私と浄土の教えとの出会いでした。
私はこの著者の別の本も読んでみたいと思いました。